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阿含宗
新たな感染症との戦いの混沌のなか
連綿と続く日本人の命の絆を結び直していく
産経新聞全国版朝刊 2022年1月5日付 15段

令和元(2019)年末に中国・湖北省で発生が報告された新型コロナウイルスは世界に感染拡大し、これまでに日本国内で約173万人が感染、約1万8千人の命が失われた。世界全体では2億7千万人以上が感染、約540万人が死亡し、人類と新たな感染症との戦いは今も続く。さらに価値観の多様化にともなって多くの国々で摩擦や分断が深刻化し、その影響は日本にも及んでいる。今こそ連綿と続く日本人の命の絆を結び直し、神仏と共にあった寛容の歴史を顧みる―。阿含宗開祖・故桐山靖雄師のそうした訓えを引き継ぐ信徒たちによって、昨秋、国家安泰・世界平和祈念・古代の神々御神徳高揚などを祈念する「神仏両界 出雲大柴燈護摩供」が島根県雲南市で挙行された。(上島嘉郎)

日本人に不可欠な「日本人らしさ」

新型コロナウイルスの脅威に日本人はいかに立ち向かったか。感染を抑えるために行動制限を守り、〝非日常〟の生活に耐えて2年余りを過ごした。医療体制の不備や経済活動の自粛要請にともなう生活の困窮など、後手に回った政府の対策にも拘らず社会秩序は維持され、日本人は自らを律せられる国民であることを示した。ワクチン接種の拡充とともに感染者は大幅に減り、アフターコロナの日常を取り戻しつつある。長い歴史に培った同胞意識が日本という国、その共同体を支えている。平たくいえば、同じ言葉を使い、同じ価値観を有するという安心感である。グローバル化の大波が押し寄せ、そうした「日本らしさ」は世界の標準に合わない、「多様性の尊重」を拡大解釈して日本の個性を希薄化させることが国際化だと主張する人々が増えている。

だが、人は突然宙空に存在するのではない。桐山靖雄師は、自らの命に連なる御先祖を大切にすることを繰り返し説かれた。戦争や自然災害による殉難者の慰霊を続けたのも、後に続く日本人の命を信じた御先祖への感謝の念であった。御先祖と繋がっているという固有の実感こそが「日本らしさ」で、それは排他的であることを意味しない。たとえば仏教渡来の歴史を見てみよう。仏教が正式に日本に伝えられたのは第29代欽明天皇の時代、それが後宮に入ったのは第30代敏達天皇の時代で、天皇自身が帰依したのは第31代用明天皇からとなる。この頃仏教を支持する蘇我氏と反対する大伴、物部両氏とが激しく争ったこともあるが、結果的に共存する。用明天皇は皇女を伊勢神宮に仕えさせ、日本の神の祭りは絶やさなかった。「神」と「仏」の共存共栄という「日本らしさ」が始まったのである。

殉難者慰霊、解脱成仏供養を続けてきた桐山師
(写真は平成24年7月、硫黄島での洋上法要)

「仏法を信じ神道を尊んだ」用明天皇の子として生まれたのが聖徳太子で、推古天皇の摂政として憲法十七条を制定した。仏教を奨励したが、憲法第一条に「和ヲ以テ貴シトナス」と諭したように、太子は複数価値の容認と平和共存を優先した。こうした姿勢はまさに多様性であり、仏教、その後の儒教などをも日本文化に包摂することになり、日本人の精神の陶冶(とうや)に繋がった。もとより日本の歴史に人々の争いが刻まれていないわけではない。古代より日本列島の各地に生きる人々が衝突と融和を重ねた結果、溶鉱炉で純度の高い鉄が鍛えられたごとく概ね一つの民族国家としてまとまったと言えるのではないか。

時代を遡って『古事記』『日本書紀』を紐解けば、第12代景行天皇の皇子日本武尊命の熊襲(くまそ)討伐や、蝦夷平定に向かう話などが出てくる。我が国の神話や歴史はそうした人々の戦いを経て「和合」に向かう国の有り様を後世に伝えている。そうした我が国の歴史を踏まえ、矛盾や不合理を抱えながらも、死者と生者の間に無念や怨念、一方的な怒りや否定の感情がわだかまることなく、苦悩を共に抱きしめることが日本人の過去と未来のために不可欠である。神仏両界の力をもってそれに尽くす―。桐山師が長く続けられた殉難者慰霊、解脱成仏供養はそのことを強く訴えていたように思う。

すべての神々に捧ぐ紅蓮の炎

令和3年11月21日午前、雲南市の加茂中央公園内に「鎮魂浄霊解脱供養」と白地に墨書された幟旗が立ち並び、穏やかな日差しのもと、祭壇正面に真正仏舎利と阿含宗開祖眞身舎利が安置された。神界・仏界二つの護摩壇が設えられ、それを囲むように配置されたテント席には参集した老若男女の信徒が法要の開始を待っていた。

「御霊の安らぎなくして国土の安穏はなく、御霊の鎮めなくして家庭の安穏繁栄は望めない」

神道の次第にのっとり頭を垂れる和田靖壽中僧正、
深田靖阿法務管長

桐山師の訓えとともに「日本海鎮護・国家安泰・日本新生・世界平和祈念・古代の神々御神徳高揚・古(いにしえ)の始めの民 解脱成仏 阿含宗 神仏両界 出雲大柴燈護摩供」が厳修された。山伏行列、山伏入壇に続き、素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀る清(すが)神社(広島県安芸高田市)神職による御神事が執り行われ、和田靖壽中僧正、深田靖阿法務管長はじめ参列者みなが神道の次第にのっとって頭を垂れる。阿含宗彌榮神授雅楽部による新舞楽「天空に捧ぐ」が奉納され、神仏への「願文」が奉読されたのち、二つの護摩壇に点火された。出雲は「国譲り神話」の地である。大国主神(おおくにぬしのかみ)が治めてきた豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子に譲られるという国津神(くにつかみ)の天津神(あまつかみ)への随順、豊葦原水穂国の奉献の神話だが、そこには諍(いさか)いがあったかも知れない。

日本の彌榮を願い灯された紅蓮の炎

さらには神話や歴史にも名を残さず埋没した古の民、古の神々があったかも知れない。そうした諸々の哀しみが慰撫され、無念や怨念が鎮められ、天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)と共に日本を護る力とならんことを、そして日本の彌栄(いやさか)を願う。その祈願の護摩木が次々投入されると、薄灰色の煙が立ち昇り、やがて紅蓮の炎にかわって勢いを増す。修験太鼓が打ち鳴らされ、朗々たる読経に乗って熱気が辺りに広がってゆく。山伏姿の信徒たちは二つの護摩壇の炎が衰えぬように護摩木を投入し続け、また、法要の指揮を取る和田中僧正、深田法務管長に随伴して脇導師をつとめる。

5年前に遷化した開祖のあとを追いかける、祈りの力を信じる修行者の姿がそこにあった。「神在月(かみありづき)」のこの日、出雲は国中から参集し、日本と日本人について談じ、その繁栄を祈る「神議(かむはか)り」を行っていた神々が、それぞれ鎮座する社に還ってゆく日であった。出雲大社では夕方、神々が発たれるのを送る「神等去出祭(からさでさい)」が催された。その直前に阿含宗の「出雲大柴燈護摩供」が厳修されたのは、桐山師の積年の計らいによるものであった。

「火伏せの儀」を行い、法要を締め括ったあと、和田中僧正はこう語った。

「この度の法要は、1993年10月の『伊勢神宮第61回式年遷宮奉祝・神仏両界大柴燈護摩供』と一対になるもので、天津神だけでなく国津神、『古の始めの神』とそれを奉じた『古の始めの民』をも含めた、神界のすべての神々を祀る祭典です。神仏両界のお力を得て日本人の間に、また世界中に諍いのないように、心豊かに過ごせるようさらに精進していきましょう」

このときの伊勢での大柴燈護摩供は、神宮の外郭団体からの招聘を受けたもので、当時桐山師は信徒にこう呼びかけている。

「神仏融合の新しい力が、伊勢から全世界に向かって放たれてゆく。世界の国開きをここから創る」

桐山師が弟子たちに託した我が国の「和合」と「世界平和」への道行は、これからもこうやって続いていくのだろう。

生誕100年 師の遺志を継いでいく

令和3年は故桐山靖雄師の生誕100年という節目の年でもあった。信徒たちはその遺志を継いで、例年にもまして開祖への「法恩感謝」の行を続けた。1月10日に関東別院で「開祖生誕祭」を執り行ったあと、各地で法要が営まれ、7月15日には和田靖壽中僧正、深田靖阿法務管長が信徒代表を率いて靖國神社に昇殿参拝し、同日夕に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で万燈会を行った。

「同じ日本人でありながら、なぜ靖國神社に行くなという人がいるのかまったく解せない。英霊のお蔭で今日の平和で豊かな日本がある。彼らは遺骨が還らなくとも、墓がなくとも、靖國神社で家族や友と再び会えることを最後の拠り所にして戦場に行った。その思いを汲まずして日本人が日本人でいられるか。死者と生者の魂の行き交いがあってこそ、日本は日本と言える。千万人と雖(いえど)も吾往かん」

生前こう語っていた桐山師の遺志は、粛々と信徒たちに引き継がれている。8月に盂蘭盆会、10月10日に開祖5回忌法要が行われ、「出雲大柴燈護摩供」に先立つ10月31日、山梨県山中湖畔で「富士山鎮護・巨大地震津波除災・国土安穏・世界平和祈念 三界水子・童男童女之霊位解脱成仏 阿含宗 神仏両界富士山大柴燈護摩供」が厳修された。

国土安穏や水子供養などの願いを込めて行われた
富士山大柴燈護摩供

平成23年の東日本大震災、同28年の熊本地震を思い出すまでもなく、日本は地震大国である。環太平洋火山帯の上に日本列島はあり、日本人は地震という災害とともに生きてきた。台風もまた例年国土を脅かして避け得ない。物理学者として『天災と国防』を著した寺田寅彦は、人間は「災難を食って生き残ってきた種族」で、中でも日本は「数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられた」という。

各法要では桐山師による秘密九字が映されるなど、
その遺志が信徒に受け継がれている

日本人は自然災害をいかに受け止めてきたか。その暴威に打ち負かされても、都度立ち上がってきた。同時に自然の力を畏怖しつつ、祈りによって人々の心をまとめてきた。富士山の噴火、南海地震、東南海地震など今日その発生が議論される中、文明の力を過信しない謙虚さを「祈り」に見出すことは日本人らしい。また桐山師は、常々心のありようを諭した。それは今生きている人間の都合だけで物事を図っていいのかということで、後世の日本人を信じて戦場に命を捧げた英霊、あるいは様々な理由によって生まれ出ることができなかった胎児、生後間もなくして死んだ子など、その御霊をどのように弔うのか、慰めるのかという問題だ。

この世が生きている者の天下としか思われないとしたら、人間は際限なく傲慢になっていくだろう。

桐山師が説き続けた成仏供養の意味は、死者と生者が繋がり、未来の命を生み出すという垂直の倫理観、人間としての情念を大切にすることにあった。霊峰富士の裾野で、国土の安穏と日本人として生を受け育まれるはずだった子らの御霊を慰める法要は、先年、この地で初めて護摩法要を厳修した桐山師の遺志を継ぐ信徒たちの思いを表したものでもあった。

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