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阿含宗
産経新聞全国版朝刊 2023年8月15日付 15段

8月15日は命を考える日父祖たちの思いと命の絆を伝えてゆくことが
未来の日本を切り開く力となる

昭和から平成、令和と時代が移り、戦後生まれの人口が全体の8割を超えた今、先の大戦の記憶はどのように語られているか。なぜ父祖たちは戦わなければならなかったのか。過酷な時代に祖国の独立と安寧を願って命を捧げた父祖たちを御供養する。後世を信じたその思いと命の絆を伝えてゆくことが、未来の日本を切り開く力となる―。阿含宗開祖・故桐山靖雄師はこの思いをもって長く国内外の戦跡を巡礼した。遺志を受け継ぐ信徒たちによって、コロナ禍の明けたこの5月、先の大戦の一大激戦地となったフィリピンにおいて戦没者の成仏と世界平和を祈念する護摩法要が挙行された。(上島嘉郎)

日米の激しいフィリピン攻防戦

先の大戦における日本の南方作戦の主目的は、米英蘭の対日経済封鎖を打破して自存自衛をまっとうすることにあった。蘭印から確保した石油を無事日本に輸送するためにはフィリピンを植民地とする米軍を制圧しなければならない。昭和16(1941)年12月、本間雅晴中将率いる第14軍は、フィリピンの米軍基地を空爆。陸軍部隊が上陸を敢行し、17年1月に首都マニラを占領した。守備に当たっていた米国極東軍総司令官マッカーサー大将は部隊をバターン半島に撤収、籠城させ、自身は同年3月、「アイ・シャル・リターン」の言葉を残して豪州に脱出した。

本間中将はバターン攻略戦を継続し、捕虜となった米比兵に「死の行進」と呼ばれる悲劇が起きた。半島に籠もった米比軍の残兵は2~3万人と見積もっていたのが、米兵1万2千人、フィリピン兵6万4千人、合計7万6千人に加え難民と現住民が2万6千人も投降してきた。

本間中将は、攻撃前に兵站監(へいたんかん)河根良賢少将に捕虜輸送計画の立案を命じていた。河根少将はバターン半島南端のマリベレスからクラーク基地北方までの約122キロを4つに区分し、徒歩、トラック、鉄道を使った輸送案を作成、途中に複数の野戦病院、救護所、休息所を設けて傷病兵の手当をする計画だったが、捕虜が多すぎたこと、ほとんどが飢餓とマラリアで衰弱していたこと、トラックを必要数確保できなかったことなどが重なって大幅に狂った。当時の日本軍には十分な資力はなく、結局、捕虜は4~5日かけてマリベレスからサンフェルナンドまで歩くことになり、米兵約2千300人を含む7千人~1万人が死亡した。

米国は組織的に計画された「死の行進」だと日本軍を非難、世界に宣伝し、河根少将は戦後の軍事裁判で処刑されたが、けっして計画的、意図的に捕虜を虐待したわけではなかった。

レイテ島にあるマッカーサー上陸記念公園

昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦、その後のガダルカナル島の攻防戦を制した米軍は反転攻勢を強め、日本が絶対国防圏と定めたサイパン島を陥落させると、マッカーサーは昭和19(1944)年10月、フィリピンに再上陸、圧倒的戦力でレイテ島を攻め、同20年2~3月にはマニラに侵攻、日本海軍を主力とする守備隊と激しい市街戦を展開した。8月の終戦までに約51万8千人の日本将兵、約3万6千人の米国将兵が斃れ、抗日ゲリラとして処断されたり、日米両軍の戦闘の巻き添えになったりして約100万のフィリピン人が犠牲になった。

フィリピンでは、日本軍は〝解放軍〟としての性格が保てなかった。英国やオランダの支配下にあったビルマやインドネシアとは状況が異なった。スペインに約300年支配され、米西戦争の結果米国に統治権が継承されたフィリピンだったが、1934年、米国は10年の期間を経てフィリピンの独立を認めることを決めた。翌35年選挙が行われ、マニュエル・ケソンが大統領に選ばれ、開戦時には独立を視野に入れた親米的な指導層と国民が存在していた。

そのことをよく知り、「比島人を決して敵として取り扱ってはいけない」「我々は米国よりも善政をなさなければならないところに難しさがある」と語っていたのが本間中将だった。この言葉に、フィリピンでの戦いの複雑さ、日本軍の葛藤が凝縮されている。

本間は、昭和21年4月、マニラの軍事法廷で「バターン死の行進」の責任を問われ銃殺された。弁護団に宛てた手紙にこう記している。
「私は始めから公正な裁きを受けるものとは期待していないのです。裁判官たる五人の将官、検事、弁護士まで悉(ことごと)くマッカーサーの部下で、マ氏は私のために苦杯を嘗めた人です。(略)部下の犯した罪の責を負い、バタアン、コレヒドールに散華した英霊に合流します。友の為に死す之より大なる愛はないと思って潔く刑を受けます」

炎暑のもと、父祖たちに捧ぐ紅蓮の炎

法要にあたり祝詞を奏上する千葉縣護國神社宮司

5月21日午前、「阿含宗世界平和祈念フィリピン戦没者成仏供養 神仏両界フィリピン大柴燈護摩供」の修法地となったマニラ首都圏モンテンルパ市には強い日差しが降り注ぎ、気温は30度を超えていた。結界中央に護摩壇(ごまだん)が設えられ、正面奥の祭壇に真正仏舎利と開祖真身舎利、英霊の帰国のための「御霊依代(みたまよりしろ)」が安置されている。「護國ノ御英霊」と白地に墨痕鮮やかに書かれた幟(のぼり)が並んではためき、黛敏郎作曲の「阿含の星まつり・序曲」が響く中、約200人の山伏が入壇、法要は始まった。

千葉縣護國神社宮司による〈御神事〉が執り行われ、阿含宗本庁理事長・和田靖壽(せいじゅ)中僧正、阿含宗本山・清川靖法権中僧正、参列の信徒みなが神道の次第にのっとって頭を垂れた。阿含宗彌榮神授雅楽部による「天空に捧ぐ」の舞が奉納され、山伏問答、前作法を経て、英霊に捧げる開祖の生前の言葉が会場に流された。

英霊に捧げる開祖の生前の言葉

「皆様を日本にお迎えするために御社(おやしろ)を設えて参りました。長い間お待たせして申し訳ありませんでした。心の底から、『御苦労様でした。有難うございます』と日本国民を代表して申し上げたいと思います」。心に沁みる声音(こわね)は、炎暑に立つ信徒を奮い立たせた。

「願文」に続き、護摩壇に点火された。わが英霊、フィリピンの人々、米兵、ともに過酷な時代に斃れた御霊(みたま)を怨嗟(えんさ)から解き、成仏供養を施すべく祈りの護摩木が次々投入される。白煙が沸き立ち、やがて紅蓮の炎となって燃え上がる。修法信徒の朗々たる読経と、気迫溢れる修験太鼓の音がモンテンルパからフィリピン全土に、父祖たちの御霊に届けと響いてゆく―。

法要終盤、「戦没者 御英霊に捧げる鎮魂歌」として東京大衆歌謡楽団の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」が流された。昭和27(1952)年9月、独立回復後に渡辺はま子、宇都美清(うつみきよし)歌唱で発表されたこの歌は、モンテンルパ刑務所(正式名ニュー・ビリビット刑務所)に戦犯容疑で収容されていた旧日本兵が戦友を悼み、望郷の想いを込めて作詞、作曲したもので、終戦から7年経ってなおフィリピンに100名を超える同胞が囚われていることを告げるものだった。渡辺はま子や教誨師(きょうかいし)の加賀尾秀忍(かがおしゅうにん)ら関係者の救援の努力が当時のフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノを動かし、独立記念日特赦によって、昭和28年7月、全員の日本への帰国が実現した。歌声に耳を傾け、父祖の苦闘に思いを馳せる。

モンテンルパ刑務所にある日本人墓地

法要終了後、信徒はモンテンルパ刑務所を訪れ、奥まった一隅にある日本人墓地で御法楽(読経)を捧げた。供養塔、平和祈念塔などが並ぶが、荒れて朽ちつつある。祖国のために命を投げ出し、運命に翻弄された父祖たちを戦後の日本はどう遇してきたか。桐山師の言葉が甦ってくる。若き日の師は結核に冒され、先の大戦に召集されることはなかった。

「学友の多くは出征し、生還かなわず靖國神社に祀られた。身代わりになってくれた。生き残った者が彼らに感謝の誠を示さなければならない。〝靖國で会おう〟といって後世を信じた彼らとの約束を守るのは当たり前ではないか。同じ日本人でありながら、なぜ靖國神社に行くなという人がいるのか。ならば、千万人と雖も吾往かん」

開祖のこの烈々たる気概を受け継ぐ信徒は、炎暑にも、雷鳴轟く横殴りの豪雨にも、たじろぐことなく御霊の成仏供養に努めた。それを目の当たりにしたのは翌22日、パンパンガ州クラーク地区で厳修された「比台日友好・アジア平和安穏 世界平和祈念 開祖御霊光照耀 阿含宗神仏両界 フィリピン・クラーク御聖火護摩法要」だった。

日浦靖剛権大僧都を導師とし、修法は阿含宗台湾本山の台湾人信徒が中心となっていた。栃木懸護國神社宮司による〈御神事〉の最中、突然稲妻が奔(はし)ると、一天にわかにかき曇り、視界をさえぎる凄まじい雷雨が襲ってきた。会場の天幕も役立たない。中断を余儀なくされたが、台湾人信徒も、日本人信徒も動揺することなく、天候の落ち着くのを待って粛々と、一心に法要の完遂に心を傾けた。開祖は平成25年の台湾本山落慶の折、「台湾本山はアジアの平和を守る灯台となる。心して修行するように」と台湾の信徒を励ました。その灯台を支えるのが日本信徒の役目で、アジアの危機の一角に立つフィリピンの地でその絆を強く確認することになった。

御霊の安らぎなくして国土の安らぎはなく、御霊の鎮めなくして家庭の安穏繁栄は望めない

修法地近くにマバラカットの旧日本軍の東西2つの飛行場跡がある。信徒はKAMIKAZEを顕彰する碑に参り、御法楽を捧げた。

1974年、西飛行場跡に「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」との銘を刻んで碑を建立してくれたのは、1930(昭和5)年生まれのフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏である。ディソン氏はこう語る。

西飛行場跡に建立された慰霊碑

「長い間フィリピンを植民地としてきたスペインやアメリカに比べれば、日本のフィリピン支配はほとんどないに等しいものでした。
 日本は、そのたった四年の間にカミカゼ精神をもたらしてくれました。それは、フィリピンにとって最良ものでした。
 それは、忠誠心であり、規律であり、愛国心でした。それが、フィリピンが戦争の時代に日本から学ぶべき良い点なのです。
 カミカゼはアジアの人間であり、アジアの英雄でした」
(『フィリピン少年が見たカミカゼ』)

ディソン氏のこの言葉は、50万余のわが英霊と、戦いの巻き添えとなった100万のフィリピン人の犠牲が刻んだ、未来に向けての日本人への戒めと激励ではないかと思う。

モンテンルパ、クラーク地区の法要に先立つ5月19日、レイテ島タクロバンとリモン峠の2か所で修行者による「照耀行脚 御聖火護摩法要」が奉修されていた。少しでも御霊の近くにという開祖の思いを体現した、激戦地跡での法要だった。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑での帰国を祝う式

フィリピンでの全法要を終えた和田靖壽中僧正はこう締め括った。
「開祖は、『御霊の安らぎなくして国土の安らぎはなく、御霊の鎮めなくして家庭の安穏繁栄は望めない』との言葉を阿含宗の理念として掲げられました。今後も、開祖とともに戦地巡礼を続けてまいります。みなが協力して、日本を守り、平和を実現していけるよう精進努力していきましょう」

7月15日、和田中僧正と信徒代表は、みたままつりで賑わう靖國神社に正式参拝し、フィリピンでの法要の首尾を奉告した。その宵、東京・九段の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で万燈供養護摩法要が奉修され、「御英霊御霊依代」の帰国を祝う式が盛大に催された。

かくして、「千万人と雖も吾往かん」という桐山師の思いは、固く引き継がれてゆく―。

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